蒲田といえば蒲田行進曲が思い浮かび、位置は分からないけれど、地名は知っているという方も多いのではないでしょうか。テレビ番組で、駅前の賑わいを見たことがある方も多いかもしれません。

蒲田はどんな地域なのか、蒲田の街の特徴や歴史を見ていきましょう。

蒲田の特徴

蒲田というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
テレビ番組の取材などでしばしば映し出されると、夜にはほろ酔いのビジネスマンなどの姿が多く見られ、賑わいのある街に思えます。

蒲田駅のお隣は川崎駅となり、神奈川県に入ります。つまり蒲田は、東京都大田区と神奈川県の境に位置する地域です。ここから蒲田の街の特徴を見ていきましょう。

駅周辺の繁華街が賑やか

蒲田駅周辺は、大田区内でも一番の賑わいのある繁華街が形成されています。
駅前の商業施設をはじめ、飲食店や居酒屋、バーなどが集まる繁華街は、日中はもちろん、夜になるとさらに賑わいが増します。その賑わいは、深夜や明け方まで続くことも少なくありません。

蒲田のオフィスで働く帰りがけのビジネスパーソンや、東京や横浜などの勤務先から蒲田へと帰る人たちが集まる、憩いのスポットになっています。

東京都心と横浜の中間地点で暮らしやすい

蒲田は大田区に位置しており、品川や新橋、東京などに京浜東北線でダイレクトにアクセスできます。そのため、東京都心部への通勤や通学にも便利です。

一方、お隣は川崎駅で、神奈川県に入ります。川崎には、工場をはじめとする働く場所が多く、神奈川一のオフィス街です。
商業地区である横浜駅へも、蒲田駅からわずか5駅です。

東京都心と横浜の中間地点に位置し、通勤、通学、ショッピングやレジャーにも便利な地域です。東京都心部に比べると、物価や賃料、マンション価格なども抑えられ、庶民的な雰囲気も漂う暮らしやすい地域といえます。

蒲田の歴史

蒲田は大田区でも有数の繁華街で、東京と横浜にもアクセスがいい場所として、人気がある住宅街でもあります。蒲田はどのように発展を遂げてきたのか、歴史を見ていきましょう。

蒲田駅開業の歴史

蒲田駅開業の歴史

蒲田駅を出ると、昼夜を問わず多くの人が行きかう、大田区随一の繁華街となっています。
現在のJRの蒲田駅は、1904年に開業しました。それに先駆け、京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)の蒲田駅(現・京急蒲田駅)が1901年に開業しています。

当時の蒲田エリアは、農村地帯でした。
農村地帯に駅が開設されたのは、実は菖蒲園がキッカケです。植物専門商社の横浜植木は、その当時から海外への花卉の輸出を行っていた事業者です。

海外ではユリが人気で、ユリの輸出によって急成長を遂げていました。さらなる成長商品を創出しようと、新たな輸出品として白羽の矢が立ったのが、花菖蒲です。

神奈川県の磯子に菖蒲園を開設したものの、手狭であったことから農村地帯であった蒲田に目をつけ、1903年に約3万坪にわたる蒲田菖蒲園が開設されました。菖蒲園は、輸出用の花菖蒲を栽培するだけでなく、観光スポットとしても人気を集めました。

東京や横浜から多くの見物客が訪れるようになりますが、交通の便が悪いのがネックです。そこで、地元から鉄道駅を開設してほしいとの要望が出て、1904年に現在のJRにあたる蒲田駅が開設されることになったのです。

菖蒲園へのアクセスは良くなったものの、蒲田エリアがいきなり都市化されることはなく、発展するのはもう少し先になります。

タイプライター工場と蒲田の都市化

蒲田駅が開業して交通アクセスが便利になったことで、和文タイプライターの製造・販売事業を営む黒沢貞次郎氏が、蒲田の地に目をつけました。

国産のタイプライター製造の生産拡大を目的に、広大な工場用地を探していた黒沢氏は、1912年に蒲田駅に隣接する場所へタイプライター工場を開設したのです。その後も工場用地の買収は拡大し、約2万坪までにおよんでいます。

工場だけでなく、社宅や公園、農園、学校や変電所、消防小屋なども整備され、今でいう企業城下町の先駆けとなりました。農家の子どもたちをはじめ、社宅や学校も用意されているので、遠方からも工場へ就職し、蒲田の地で職も住も生活環境も手に入れて暮らせたのです。

これに伴い、蒲田には、地域外からも多くの人が集まってくるようになります。

工業地帯化と繁華街の形成

タイプライター工場の城下町化とともに、関連工場やその他の工場も進出するようになり、蒲田エリアは工業地帯化していきます。これに伴い、仕事終わりや休日に楽しむ場所として、繁華街も形成されていきました。

さらに、蒲田駅の東口には、松竹蒲田撮影所が開設されます。映画監督の小津安二郎や女優の高峰秀子などは、蒲田での映画撮影をキッカケに、知名度を上げていきました。撮影所ができたことで、蒲田の繁華街は工員や地元の人だけでなく、多くの映画関係者で賑わうようになり、芸術や文化、流行の発信地にもなっていきました。

公害と戦争

蒲田の発展を牽引してきた工場群は、工場から煤煙や汚水が排出され、周辺の生活環境を悪化させていきます。

さらに、工場からの騒音が映画の撮影にも影響を与えたことから、1936年には松竹の撮影所が、蒲田から大船へと移転してしまうのです。その後に戦争が起こると、企業城下町にあった社宅群は空襲で焼けてしまいます。

工場は焼け残ったものの、終戦後に占領したGHQから高額な財産税を課されるなどし、この地を去ることになりました。

戦後の復興と発展

GHQによる苦難の歴史を経て、昭和30年代に高度成長期に入ると、蒲田はものづくりの街として、日本の経済的な躍進を支えていくことになります。

蒲田は一大消費地である東京と、高度成長期に工場群ができた川崎の臨海工業地帯の中間エリアにあったことから、中小の町工場が増えて活性化していきました。

昭和40年代に入ると、商業地化が進んでいきます。東京に近く、川崎や横浜にも出やすい場所であることから、移住してくる人も増えて、ベッドタウン化とともに蒲田駅周辺の賑わいが増していきました。

蒲田の交通アクセス

蒲田には蒲田駅があり、JR京浜東北線、東急多摩川線、東急池上線の3路線が使えます。JR京浜東北線を使えば、品川駅や田町駅、浜松町駅、新橋駅、東京駅や上野駅などのオフィス街や主要ターミナル駅にも出やすいです。

新幹線への乗り換えなどもスムーズにできるので、出張などにも便利でしょう。蒲田駅のお隣は神奈川県の川崎駅であり、横浜駅にもすぐの場所です。

神奈川方面ともつながっているため、ビジネスでの移動をはじめ、通勤にも便利な路線です。東急多摩川線、東急池上線の私鉄も使えるので、蒲田駅はビジネス利用や通勤がしやすい駅といえます。

蒲田のオフィス賃料相場

蒲田の賃料相場の坪単価は、30坪~50坪のオフィスで18,900円、50坪~100坪のオフィスで14,600円、100坪~200坪で15,300円、200坪以上のオフィスで11,500円となっています。

面積が広いほど賃料相場が安く、大きめのオフィスを構えたいときには、コストを抑えることが期待できます。立地や駅からの距離、周辺環境をはじめ、オフィスビルの築年数や規模、設備、セキュリティなどによっても変動するので、確認が必要です。

まとめ

蒲田は東京や川崎、横浜にも出やすく、人気の住宅街になっているほか、オフィスを構えるにも便利なエリアです。

駅周辺には商業施設をはじめ、飲食店などが集まる繁華街も形成されており、仕事帰りにもリフレッシュできるスポットが豊富です。

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