高田馬場といえば、学生街のイメージをお持ちの方もいれば、鉄腕アトムの発車ベルが流れる駅という印象をお持ちの方もいるかもしれません。
学生時代に過ごした懐かしい街、まだ行ったことがない場所という方もいるでしょう。
高田馬場がどんなエリアなのか、その特徴や歴史をご紹介します。

高田馬場の特徴

高田馬場といえば、早稲田大学をイメージされる方も少なくありません。
駅前に複数ある専門学校などをイメージされる方、ビックボックスなどの駅前にある商業施設をイメージされる方もいるでしょう。
高田馬場は、どのような特徴がある街なのでしょうか。

学生街

学生街

高田馬場は、早稲田大学の最寄り駅です。
早稲田大学は、キャンパスが学部ごとに、いくつかに分かれています。
高田馬場からは、早稲田にある本キャンパスをはじめ、戸山にある文学部のキャンパス、理工学部のある大久保キャンパスにも、バスや徒歩でアクセスできます。
高田馬場駅からまっすぐに伸びる早稲田通りは、まさに早稲田大学へとつながる道です。
大学がすぐ近くにあるイメージですが、実際には徒歩で20分ほど歩いた場所にあり、一番近い駅は東西線の早稲田駅になります。

そのため、高田馬場駅から都バスを使って、通学する学生が少なくありません。
もちろん、交通費をカットするために、徒歩で往復している学生も多いです。
早稲田通りには学生向けの書店をはじめ、定食屋や居酒屋、ラーメン店など、安くて美味しい店が立ち並んでいます。

早稲田大学だけでなく、高田馬場駅周辺には富士短大や各種専門学校、進学塾なども多く、学生が多いエリアです。
早稲田大学や高田馬場駅周辺には、学生向けのアパートやマンションも多いので、学生が学校に通うだけでなく、暮らす場でもあります。

鉄腕アトムのゆかりがある街

高田馬場駅で降りたことがない方でも、山手線で通ったことがある方は、高田馬場駅の発車ベルが鉄腕アトムのアニメ主題歌になっているのを、聞いた経験があるのではないでしょうか。

高田馬場駅を出てすぐの高架下には、鉄腕アトムの壁画も描かれています。
なぜ高田馬場には、鉄腕アトムゆかりのものが多いのでしょうか。
これは、アニメ制作を手掛けた手塚プロダクションの事務所が、高田馬場にあるからです。
また、鉄腕アトムはストーリーの中で、高田馬場にある科学省で2003年4月7日に誕生したとなっていることに由来します。

2003年は今となっては過去ですが、マンガが描かれてアニメが放映された当時は、21世紀の未来の話でした。
そこで、地元の高田馬場西商店街振興組合などが働きかけ、アトムが誕生するとされる2003年4月7日に向け、2003年3月1日から、山手線の高田馬場駅の発車メロディがアニメの主題歌になりました。
若い方には馴染みがないアニメかもしれませんが、駅の発車ベルが柔らかいメロディであると、どこかホッとします。

高田馬場の歴史

では、高田馬場はどのような歴史をたどってきたのか、学生街として発展してきた歴史を見ていきましょう。

馬場の設営

歴史が好きな方などは、馬場と聞くと、おそらく馬場があった場所と考えるのではないでしょうか。
日本では近代になるまで、馬を足として使っていました。
そのため、馬を置いたり、トレーニングをしたりするための場所として、馬場が各所に設置されていました。

高田馬場もその昔、馬場が置かれていたのです。
1636(寛永13)年、隠居後は水戸黄門として知られている三代将軍の徳川家光が、旗本らの馬術トレーニングのために、この地に馬場を設営しました。
高田の名称は、徳川家康の側室であった茶阿局の別荘があったからと伝えられています。
なぜかというと、茶阿局の息子は越後高田藩主となった松平忠輝であったため、高田の君(たかだのきみ)と呼ばれていたためです。
なお、江戸時代よりも古く、戦国時代にすでに高田という地域名で呼ばれていた説もあります。

流鏑馬の歴史

高田馬場というと、流鏑馬も有名です。
年に一度、テレビのニュースなどで、報道されるのを見ている方も多いのではないでしょうか。
流鏑馬は、走る馬の上から矢で的を射る技で、平安末から鎌倉時代には、武士の間で矢継ぎ早に矢を射る訓練として行われていたものです。
この流鏑馬について調べ、儀式の形で復活させたのが、江戸幕府の八代将軍である徳川吉宗です。

享保十三年(1728年)、世嗣の疱瘡平癒祈願の目的で、高田馬場に今でも残る穴八幡宮で流鏑馬を奉納しました。
元文三年(1738年)には、後の十代将軍家治となる竹千代の誕生祝いとして、奉納されています。
それ以降は、将軍家で若君が誕生した際や厄除けの目的で、流鏑馬が奉納されるようになりました。

しかし、江戸幕府が倒れ、明治時代に入ると神事も行われなくなり、馬場である高田馬場も廃止されてしまいます。
昭和9年5月には、現在の上皇陛下である皇太子の誕生を祝って、穴八幡宮境内で流鏑馬が再興されています。
その後、戦争によって再び行われなくなりますが、戦後の昭和39年に流鏑馬の古式を保存する目的で、高田馬場にある水稲荷神社で復活しました。
さらに、昭和54年からは都立戸山公園に開催場所が移され、昭和63年には新宿区の無形民俗文化財に登録されています。

早稲田大学の誕生と発展の歴史

明治維新で活躍した1人である大隈重信の別宅が、高田馬場にあったのをきっかけに、この地に東京専門学校、現在の早稲田大学が誕生することになります。
開校したときは交通の便も悪く、不便な場所でした。

しかし、学生たちの要望などもあり、明治時代後期になると、現在のJR山手線にあたる高田馬場駅が誕生しました。
さらに、東京市電・王子電気軌道や西武村山線が開通し、交通の便が一気によくなります。
学生をはじめ、多くの文豪なども集まる文教地区となっていったのです。
明治40年代に入ると、早稲田大学の正門から続く通りに、学生街や下宿屋街が形成されていきます。

大正期から昭和初期にかけては、高田馬場駅周辺も学生が暮らす下宿屋が増えました。
その1つには、文豪の太宰治も暮らしていたといいます。
昭和から平成にかけても、風呂なしトイレ共同の古い木造アパートが残っており、銭湯に通う学生や、大学の体育館でシャワーを浴びて安く済ませる学生の姿も見られました。
現在では、古い木造アパートの多くが老朽化により解体され、現代風のワンルームマンションなどになっています。
早稲田大学で女子学生が増えたこともあり、オートロックで安心して暮らせるマンションが増えています。

高田馬場の交通アクセス

高田馬場の交通アクセス

高田馬場は高田馬場駅があり、JR山手線をはじめ、東京メトロ東西線、東西線と直通運転をしている西武新宿線も使えます。
JR山手線を使えば、新宿駅にも池袋駅にもそれぞれ2駅でアクセスでき、都心部の主要駅に出やすいのが便利です。
東西線を使えば、大手町や日本橋、茅場町などのビジネス街にもダイレクトアクセスができます。

千葉県の西船橋方面までつながっているので、通勤もしやすいです。
西武新宿線は、下落合や上石神井などを通って拝島までつながっており、家賃が安く学生にも人気のエリアです。
高田馬場のオフィスに通うために、引っ越してくるのもありかもしれません。

高田馬場のオフィス賃料相場

高田馬場の賃料相場は、30坪~50坪で20,700円、100坪~200坪で24,000円、200坪以上で22,500円といったところです。
広さをはじめ、立地や築年数にもよりますが、坪単価20,000円台前半が相場になります。

まとめ

高田馬場は学生街として、安くてボリュームのあるお店や居酒屋なども多く、ランチや仕事後の楽しみも広がります。
山手線と東西線、西武新宿線も利用でき、新宿にも池袋にもすぐの立地で便利なので、オフィスを構えるにもおすすめです。

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