吾妻橋というと、知る人ぞ知る金のオブジェが見えることで有名です。
金のオブジェがある場所といっても、一体なんの建物なのか知らない方もいらっしゃるかもしれません。
この記事では、吾妻橋の街の特徴や歴史を紐解いていきます。
目次
吾妻橋の特徴
吾妻橋というのは、隅田川に架かっている橋の一つで、吾妻橋周辺のエリアは吾妻橋という地名にもなっています。
国内外から多くの観光客が訪れる雷門と浅草寺のある浅草と、東京の新たなランドマークとなった東京スカイツリーがある押上の間にある地域です。
この地域には、金のオブジェで有名な大手企業の本社があり、きんとんうんが見える場所として親しまれています。
吾妻橋はどんな地域なのか見ていきましょう。
町工場が多い地域
吾妻橋の地域を歩くと、どこからともなく作業音のような音が聞こえてくることも少なくありません。
このエリアには小さな町工場や作業所などが多く、工場から作業音などが聞こえることがあります。
オフィスビルやマンションなど近代的な建物が増え、住宅街が増えていく中でも、戦前や戦後から続く町工場の歴史が現在も紡がれているのが特徴です。
下町風情が残る地域
古くより続く町工場が残っていることもあり、下町風情が残る地域です。
庶民的な暮らしやすさが残る地域で、本所吾妻橋駅の周辺の大通りなどにはチェーンの飲食店や居酒屋などがあるほか、庶民的な飲食店も多く、暮らしやすい雰囲気です。
都心部への交通アクセスが良いことから、若いビジネスパーソンが暮らす場所として人気を集めていることもあり、遅くまで営業している飲食店や24時間営業のお店なども増えてきました。
閑静な高級住宅街化が進む地域
駅周辺や大通りには飲食店やオフィスビルが建ち並び、少し路地に入ると昔ながらの住宅街の中に町工場や作業所が点在しています。
さらに進んでいくとマンションも増え、閑静な住宅街が広がっています。
高級賃貸マンションも増えており、若い社会人などを中心に人気です。
立地上、マンションの高層階からはスカイツリーが見えることや夏の風物詩である隅田川花火大会の花火が見えます。
眺望に優れていることや人気のスポットに近いことから、家賃も高騰傾向にあり、下町の高級住宅街化しています。
スカイツリーや金のオブジェが見える地域
東京スカイツリーがお隣駅にあり、634mという高さがあることから、吾妻橋のたいていの場所からスカイツリーの姿が見えるのが魅力です。
夜間にはライトアップされ、日によってブルーやパープルの幻想的なカラーに輝く姿を楽しむことができます。
毎年恒例の隅田川花火大会の花火も、場所によっては見ることが可能です。
マンションの窓やベランダから見えるケースもあり、こうしたマンションは賃料も値上がりし、競争率も高いです。
吾妻橋の歴史
吾妻橋はどのような歴史を持っているのでしょうか。
地名の由来にもなっている吾妻橋の歴史とともに紐解いていきましょう。
吾妻橋の橋の歴史
吾妻橋は江戸時代の安永3年、1774年に架橋されました。
当時は木造の橋でした。
その当時、隅田川は大川と呼ばれていたため、当時は大川橋という名前で呼ばれていたとされています。
明治9年(1876年)に架け替えが実施されると、吾妻橋と名付けられます。
吾妻橋という名称の由来は諸説あり、定かではありませんが、隅田川の東岸にある吾嬬神社へ向かう道沿いに架けられたことから吾妻橋と名付けられたという説が有力です。
数度の架け替えを経ましたが、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で被災してしまいます。
その後、すぐには復旧ができず、昭和4年(1929年)から再建に向けた工事がスタートします。
この地は、浅草の繁華街に近いので人通りが多い通りです。
また、当時は船舶も盛んに航行していました。
被災した旧橋を撤去する工事と同時施工で、新しい橋の架橋工事が行われ、昭和6年(1931年)に現在も使われている橋が完成しています。
吾妻橋エリアの歴史
浅草の対岸にあたる、現在の吾妻橋エリアは江戸時代には大名の武家屋敷が建ち並ぶようになります。
文政5年(1822年)には、沼津藩の水野忠成の屋敷も築かれました。
庭園も造られ、浩養園と名付けられます。
1860年になると、現在の秋田県にあたる久保田藩佐竹家の下屋敷になりました。
浩養園は佐竹邸庭園と呼ばれるほか、以前からの名称で呼ぶ方も少なくありませんでした。
そして、江戸幕府が倒れ、明治時代に入ると、明治23年(1890年)からは浩養園として一般公開がなされ、地域の方や浅草エリアを訪れる人の憩いの場として利用されるようになります。
明治33年(1900年)に入ると浩養園一帯のエリアが、札幌麦酒という企業に買収されます。
そして、この地にビール工場が建設され、明治36年(1903)から札幌麦酒東京工場として醸造がスタートしました。
当時では画期的なことでしたが、買収した浩養園をビアガーデンにし、作り立てのビールが楽しめる場所にしたのです。
明治39年(1906年)にはビール会社の合併がなされ、工場は大日本麦酒の吾妻橋工場と改称されます。
大正時代後期になると、浩養園のエリアまで工場が拡張されるとともに、1923年の関東大震災で被災したこともあり、大名庭園の面影は失われていきました。
第二次世界大戦に入ると、東京大空襲などの影響もあり、工場は大きな被害に遭います。
戦後の昭和24年(1949年)、大日本麦酒は現在のサッポロビールにあたる日本麦酒と現在のアサヒビールにあたる朝日麦酒に分割されることになります。
吾妻橋工場は、最初に工場を建設したサッポロビールではなく朝日麦酒(現・アサヒビール)の工場になりました。
吾妻橋工場は昭和60年(1985年)に老朽化などに伴い、閉鎖されます。
その後、昭和64年(1989年)に、朝日麦酒は社名をアサヒビールへと改称しました。
同年、吾妻橋工場跡地の再開発地区であったリバーピア吾妻橋に続々と建物が建設されます。
琥珀色のビールをイメージしたアサヒビールタワーをはじめ、地域で話題を集めている金色のオブジェが乗ったスーパードライホール、さらに住宅・都市整備公団のタワーマンションなどが建ち並びました。
その翌年には墨田区役所の新庁舎も完成し、吾妻橋エリアは下町風情のある地域から、近代的な様相を呈する地域と化していきました。
現在の吾妻橋からは、話題の金色のオブジェや東京スカイツリーが一望でき、人気のフォトスポットにもなっています。
吾妻橋のたもとには水上バス乗り場もあり、浅草から日の出桟橋やレインボーブリッジ、お台場へと遊覧することや豊洲エリアへ向かうことも可能です。
吾妻橋の交通アクセス
吾妻橋には都営浅草線の本所吾妻橋駅があります。
都営浅草線は浅草橋駅や人形町駅などの問屋街をはじめ、日本橋駅や東銀座駅や新橋駅、大門駅、五反田駅などオフィス街にダイレクトにアクセスすることが可能です。
東銀座駅を出るとすぐに銀座の街が広がります。
大門駅は浜松町駅のすぐ近くなので、モノレールにも乗り換えやすいです。
新橋駅や五反田駅でJR線に乗り換えられるのも便利です。
都営浅草線は羽田空港や成田空港とも直通運転しており、国内外への出張もスムーズになります。
吾妻橋のオフィス賃料相場
吾妻橋の賃料相場の坪単価は10,000円前後です。
駅からの距離や立地、周辺環境、ビルの築年数や設備などによっても変動しますので、確認が必要です。
まとめ
吾妻橋はスカイツリーや隅田川花火大会が見えるなど、好立地です。
近代的な建物も増え、飲食店も多いなど、オフィスを構えても便利です。
都営浅草線の本所吾妻橋駅から都心部とのアクセスも良く、通勤もしやすいことから下町の高級住宅街化が進んでいます。
【吾妻橋・本所・両国】の賃貸オフィスはこちらから。