早稲田といえば、早稲田大学がイメージされるかもしれません。
大学のほかに、どんな街が形成されているのでしょうか。
この記事では、早稲田の現代までの歴史や街の特徴などをご紹介していきます。

早稲田の特徴

早稲田は、どうしても早稲田大学のイメージがありますが、どのような地域なのでしょうか。
大学に関係がない場合、なかなかアクセスすることがない早稲田の特徴をご紹介します。

早稲田大学がある街

早稲田大学がある街

早稲田といえば、やはり早稲田大学は外せません。
正門と時計台のある大隈講堂、政治経済学部や法学部、商学部などがある早稲田キャンパスがあります。
早稲田駅を挟んで向かい側に位置するのが、体育館や文学部がある戸山キャンパスです。
高田馬場駅と大久保駅の中間エリアに位置する、理工学部がある西早稲田キャンパスの3つで構成されています。

学生街

広大な3つのキャンパスがあり、そのエリアを埋めるように、学生が暮らす安いアパートや、オートロック完備で女子学生にも安心のワンルームマンションなどが建ち並んでいます。
学生たちの胃袋を満たす、安くてボリュームがある飲食店や居酒屋、古書店やコンビニ、学生に物件を紹介する不動産屋などが集積しています。
学生街のなかに、雑居ビルやオフィスビルなどが点在しているのが特徴です。
ランチが安く食べられる、仕事後の飲み会が安いなど、社会人にとっても過ごしやすい街です。

住宅街

学生ばかりが集まる街に思えますが、卒業後もこの地で暮らす社会人も多いです。
文教地区としてファミリー層にも人気があり、ファミリー向けのマンションや古くからある一戸建ての住宅などがあり、閑静な住宅街が形成されています。
授業がある時期は賑わいがありますが、夏休みや春休みなどの長期休みの時期は学生の姿も少なく、早稲田大学周辺の飲食店も休業するなど、静かになるのも特徴的です。

神社のある街

神社のある街

早稲田大学の戸山キャンパスの向かい側には、かつて流鏑馬の神事も行われていた由緒ある穴八幡宮があり、商売繁盛や出世、開運のご利益がある八幡宮です。
例年、冬至から節分の間には、金銀融通のご利益がある一陽来復が授与されるため、全国から多くの参拝者が訪れます。

授与されたお守りを、冬至、・大晦日、節分のいずれかの24時に、その年の恵方に向けて高い場所に奉ると、ご利益が得られるといわれています。
また一時期、穴八幡宮から流鏑馬神事を受け継いでいた早稲田水稲荷神社は、水と緑の鎮守として知られており、日本稲荷古社の随一という歴史を持つ神社です。

早稲田の歴史

早稲田は、どのような歴史をたどってきたのでしょうか。
地名は歴史を物語るといわれるため、早稲田の歴史と早稲田大学の創立や、学生街としての歩みを見ていきましょう。

田園地帯であった早稲田

早稲田というと、早稲田大学があるからその地名があるように思われがちですが、田園地帯であったことが地名に由来しています。
早稲田は江戸時代に開かれた村であり、早稲田村ができたことが地名のはじまりです。
地名に稲田とあるように、江戸時代は神田川沿いに水田が広がっていました。

もっとも、稲の収穫期は台風シーズンでもあり、神田川が氾濫することで、稲がダメになってしまうことも少なくありませんでした。
そこで、神田川が氾濫する前に収穫できる早生品種へと改良が行われ、早稲が植えられたことから、早稲田と呼ばれるようになったといわれています。

早生品種というと、気候環境の変化やほかの地域に先駆けて新米を発売したいといった近代のニーズに合わせて、生み出されたもののイメージがあります。
しかし、江戸時代にすでに開発されていたというのは、驚くべき歴史です。

早稲田大学の誕生

早稲田には、明治維新で活躍した大隈重信の別宅があったことから、この地に早稲田大学の前身となる東京専門学校が設立されました。
1882(明治15)年のことで、政治勢力からの学問の独立を掲げて創設された学校です。

この当時の早稲田エリアは、茗荷畑が広がる田園地帯でした。
大隈重信が学校を設立したと聞きつけた学生たちが、地方から大志を抱いて入学してきました。

しかし、交通の便は悪く、大学に併設された寄宿舎に入れなかった学生は、田んぼのなかにある畦道を通って通学していました。
設立から約20年が経ち、1902(明治35)年に早稲田大学に改称されたタイミングで、現在の正門から鶴巻町を経て、山吹町へと至る場所に新道が開通します。

学生の通学路ができたことから、明治40年代には新道に沿った鶴巻町界隈に、下宿屋を中心に学生たちが飲食をしたり、楽しんだりするための店が増えていきました。
洋食屋や喫茶店、古本屋や銭湯をはじめ、マージャン店やビリヤード場、映画館や寄席などエンターテインメント施設が勢ぞろいし、繁華街が形成されていったのです。

戦争による焼失

大正末期から昭和の戦前期は、繁華街、学生街として栄えた早稲田周辺地域ですが、第二次世界大戦によって一変します。
学生たちは学徒出陣で駆り出され、学問を十分にできる状況ではなくなりました。
さらに、1945(昭和20)年5月26日の空襲を受け、下宿屋や娯楽施設が集積していた鶴巻町から戸塚町にかけては、極一部を除いて焼け野原となってしまったのです。

戦後の歴史

戦争が終わり、少しずつ大学に学生が戻って早慶戦が復活するなどし、私学の雄として最高学府の東大に次ぐ難関大学として名をはせていきます。

ベビーブームで学生がどんどん増えていた1975(昭和50)年には、住居表示が変更され、早稲田大学周辺のエリアは新しい町名となり、西早稲田となります。
開校時から使われていた早稲田大学の本部キャンパスは、1994(平成6)年になり、西早稲田キャンパスへと改称されました。

この当時の最寄り駅は、東西線の早稲田駅であり、多くの学生が利用していました。
2008(平成20)年になると、東京メトロ副都心線が開通し、新たに西早稲田駅が誕生します。
すると、困ったことが起こりました。
町名変更に伴い、本部キャンパスを西早稲田キャンパスに改称したのですが、その最寄り駅は東西線の早稲田駅です。
一方、新たに誕生した西早稲田駅に直結するのは、早稲田大学の理工学部がある大久保キャンパスでした。

そこで、今度は駅名に合わせる形で、西早稲田キャンパスを早稲田キャンパスに、大久保キャンパスを西早稲田キャンパスへと改称することになりました。

早稲田の交通アクセス

早稲田の交通アクセス

早稲田では3駅3路線が使えるほか、早稲田大学のバスターミナルから都バスも発着しており、高田馬場方面や渋谷方面へもバスでアクセスできます。
鉄道では、東京メトロ東西線の早稲田駅が使え、大手町や竹橋、日本橋、茅場町などのオフィス街にも出やすいです。

東京メトロ副都心線の西早稲田駅を使えば、渋谷にもダイレクトアクセスが可能です。
池袋や新宿三丁目にも行けるため、高田馬場まで出てから山手線に乗り換える必要がありません。
また、都電荒川線の早稲田駅を利用することも可能です。
都心で残る路面電車で、巣鴨や王子などを経て、荒川区の三ノ輪橋まで行けます。

早稲田のオフィス賃料相場

早稲田のオフィス賃料の坪単価は、25,000円前後です。
立地や築年数、設備などによっても変動するので、確認が必要です。

まとめ

早稲田は早稲田大学を中心にしたエリアで、学生街としての賑わいがあります。
学生向けの飲食店やアパートなども複数ありますが、夏休みや春休みなど長期の休みの時期は、界隈も比較的静かです。
早稲田大学の周辺エリアは閑静な住宅街も広がり、オフィスビルなども点在しています。

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