歌舞伎町というと眠らない街のイメージがあり、お酒をあまり飲まない人や歓楽街が苦手な人にとっては、近寄りがたい場所かもしれません。

近年では、ホストクラブの売掛金問題やトー横キッズが話題になるなど、社会問題化しています。

一方で、歌舞伎町を誰もが気軽に遊びに来られる街にしようという動きも起きています。
歌舞伎町の歴史や特徴を見ていきましょう。

歌舞伎町の特徴

歌舞伎町は東京一どころか、日本でも有数の歓楽街といったイメージがあります。
どのような街なのか、特徴を見ていきましょう。

劇場の街

歌舞伎町という名前は、もともと歌舞伎の劇場を誘致したかったことに由来します。

戦後の復興で、この地に歌舞伎の劇場を中心に、映画館などさまざまなエンターテインメント施設を建設し、興行街にしようという計画がありました。
そのため、歌舞伎町という名称を付けたのですが、歌舞伎の一座を招くことに失敗し、町名だけが残されます。

しかし、昭和30年代に新宿コマ劇場ができました。
新宿コマ劇場では、大物演歌歌手のコンサートや演劇などが行われ、多くの人が訪れました。

その周辺には、ボウリング場やゲームセンター、カラオケ店などもでき、エンターテインメントやアミューズメント施設が集積する場となっていきます。

その後に新宿コマ劇場は閉鎖されますが、時を経て最新のシネコンや大衆劇場、さまざまな公演をするイベントスペースなどができ、再び劇場の街としての姿が回復してきました。

眠らない街

かつてあった新宿コマ劇場などのエンターテインメント施設を取り囲むように、歓楽街が形成されていました。
当初は居酒屋をはじめ、キャバクラなど男性が遊びに行く店が主流でした。

やがて、仕事終わりのキャバ嬢たちが遊びに行く場所として、ホストクラブが誕生します。
そのため、ホストクラブは深夜から営業をはじめ、早朝まで営業するお店がほとんどでした。

その後、一般女性へとターゲットが広がり、夕方からはじまるお店や、昼間も営業するようなお店も増えていきました。

一部の悪質な店舗や悪質なホストにより、売掛金問題などが社会問題化していますが、新宿区とホストクラブなどが連携して、よりよい歌舞伎町作りに取り組んでいます。

新宿区役所は歌舞伎町すぐの場所にあるので、連携しやすいのです。

日本文化を発信する国際的な街へ

歌舞伎町は若者が遊ぶ街、社会人やキャバ嬢などが飲み歩く歓楽街であり、近寄りがたい雰囲気がありました。

しかし、歌舞伎町から日本文化を発信しようという動きや、新たなエンターテインメント施設を作ろうという動きがあり、大型商業施設が誕生しています。

新宿で働く人、遊びに来る人、海外からの観光客など、幅広い人が気軽に遊ぶことや飲食を楽しめる場所を目指しています。

歌舞伎町の歴史

歌舞伎町の歴史

では、あらためて歌舞伎町の歴史を振り返っていきましょう。

戦前から戦後

現在の歌舞伎町があるエリアには、戦時中まで東京都立富士高等学校・附属中学校の前身にあたる東京府立第五高等女学校がありました。

しかし、第二次世界大戦の空襲で被災し、戦後は中野区へと移転しています。この跡地に、戦後の復興計画で整備されたのが歌舞伎町です。

このエリアは空襲で焼け野原となっていましたが、終戦わずか4日後の1945年8月19日に、地元の町会長であった鈴木喜兵衛氏が復興計画に着手します。

民間主導の戦後復興として、歌舞伎劇場の菊座をはじめ、映画館や演芸場、ダンスホールなどが集結した興行街を作ろうという計画が立てられました。

なかでも、歌舞伎劇場の誘致を強く望んでいたことから、歌舞伎町と町名変更の手続きも取られました。

歌舞伎町の町名が認められたのは、1948年4月のことです。

当時の東京都都市計画課長であった石川栄耀氏は、地元住民の意向を踏まえ、理想的なアミューズメントセンターになるよう指導を行っており、歌舞伎町の名称を考案したのも彼だと言われています。

しかし、建築規制や預金封鎖が起こり、菊座による歌舞伎劇場の開設は実現しませんでした。そのほかの娯楽施設も建設が中止となってしまい、すでに着工されていた映画館の地球座のみが完成する形になりました。

再び得られた好機

歌舞伎町という名前を付けながらも、歌舞伎劇場はなく、映画館のみの寂しいスポットになってしまった歌舞伎町にチャンスが訪れます。

1950年には、歌舞伎町エリアをメイン会場として、東京産業文化博覧会が開催されたのです。

娯楽施設の建設を予定していた地域にパビリオンが建てられましたが、実は博覧会に人が集まらず、成功には至りませんでした。しかし、パビリオンを娯楽施設に転用するという目論見が成功したのです。

博覧会開催によって歌舞伎町の知名度が上がり、この頃には建築規制も撤廃されていました。
もともと歌舞伎町の計画には、家族連れで楽しめる文化的アミューズメント施設を作ることが予定されていました。

そこで、歌舞伎劇場の建設を予定していた場所に、1956年に新宿コマ劇場が建設されることになったのです。

劇場の名前は、舞台全体がコマのように回転する仕掛けが装備されていたことが由来です。
演歌の殿堂として、美空ひばりや北島三郎などの大物演歌歌手がコンサートを開催しています。

ミュージカルやボリショイ・バレエ団、宝塚歌劇などの興行も開催され、1958年には第9回紅白歌合戦の会場になったこともあります。

新宿コマ劇場は、開設以来4,000万人以上の観客を集めましたが、老朽化や業績悪化と再開発の動きの中で、惜しまれながら2008年に閉館しています。

再開発が行われ、その跡地に2015年に完成したのが、新宿東宝ビルです。地上30階地下1階の超高層ビルで、8階部分にゴジラの頭が据えられるなど、話題を集めました。

ビル内には、最新のシネコン設備を備えたTOHOシネマズ新宿や、ホテルも開業しました。なお、この新宿東宝ビルの周囲に集まってくる若者などのことを、東宝ビルの横に集まっていることから、トー横キッズと呼ばれています。

東急歌舞伎町タワー開業までの歴史

東急歌舞伎町タワー開業までの歴史

東京産業文化博覧会のパビリオンの1つであった産業館は、1952年に東京スケートリンクとして開業しました。

その後、1956年に、東京スケートリンクが1つの施設として入居する、新宿東急文化会館へ建て替えられます。

さらに、1967年には東京スケートリンクに代わって、新宿ミラノボウルができ、ボウリングを楽しむ人で賑わいました。

そして1996年に、新宿東急文化会館が新宿TOKYU MILANOに名称変更されますが、再開発の動きの中で2014年に閉館となります。

10年近い時を経て、2023年4月、その跡地に東急歌舞伎町タワーが開業しました。
地上48階、地下5階、高さ約225mと、その時点で歌舞伎町の新たなランドマークとなっていた、新宿東宝ビルを凌ぐ圧倒的な高さです。

オフィスゾーンは一切なく、映画館や劇場、ライブホール、ゲームセンターなどのエンターテインメント施設と、日本各地のソウルフードが楽しめる横丁、価格帯が異なる2つのホテルで構成されています。

好きを極める人たちが足を運びたくなる場所を目指し、幅広いバリエーションの興行を行っています。有名アーティストやアイドルのライブをはじめ、バーチャルアイドルのライブ、Zepp Shinjukuによるナイトクラブの運営などを行うことで、昼と夜で来館層が変化するのが特徴です。

これまで歌舞伎町を敬遠していた人や、歌舞伎町に訪れる機会のなかった人、海外からの観光客も、幅広く歌舞伎町に足を運んでほしいという願いが込められています。

さらに、2023年10月には、新たな施設としてハナミチ東京 歌舞伎町もオープンしました。
こちらは、地下1階・地上4階のコンパクトなビルですが、地下1階には山手線内唯一の大衆劇場である歌舞伎町劇場がオープンします。

毎日日替わりで、芝居とショーの2本立ての大衆演劇が上演されます。喜劇や人情芝居、剣劇、ラブロマンスなど、さまざまな芝居を観ることが可能です。

ビル内には、昭和レトロな喫茶店や和食が楽しめるお店をはじめ、レンタル着物店もあり、着物に着替えて観劇を楽しめます。

歌舞伎町の交通アクセス

歌舞伎町は、JR線や小田急線・京王線・東京メトロ 丸ノ内線の新宿駅をはじめ、西武新宿線の西武新宿駅、都営大江戸線の新宿西口駅、東京メトロ丸ノ内線・副都心線 ・都営新宿線の新宿三丁目駅も使えます。

歌舞伎町のオフィス賃料相場

坪単価は、13,000円前後~25,000円前後です。
立地や駅からの距離、ビルの築年数や設備などによっても変動しますので、確認が必要です。

まとめ

歌舞伎町は眠らない街、少し近寄りがたい歓楽街のイメージもあるかもしれません。
しかし、再開発の動きにより、幅広い世代が楽しめる日本文化の発信拠点など、国内外からの観光客を集める施設なども誕生しています。

新たな可能性が動きだした歌舞伎町は、新宿区役所なども近く便利です。

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