永田町というと、政治の街というイメージがあります。
政治家の集まりのことや、政治家の話を永田町と呼ぶこともあるほど、政治=永田町のイメージがついています。

そんな永田町が政治の街とされる特徴や歴史について、紐解いていきましょう。

永田町の特徴

政治の街のイメージが強い、永田町の特徴を見ていきましょう。

政治の街

永田町が政治の街と言われるのは、国会議事堂を中心に、内閣総理大臣官邸や衆議院議長・参議院議長の公邸、国会議員として名を連ねる政党の本部建物などが集結しているためです。

永田町に隣接する霞ヶ関には、最高裁判所をはじめ、国の官公庁が建ち並び、国を動かす一大組織が集結しています。

政治家が集まって話し合いをする場として、高級料亭やホテルなども集まる独特の雰囲気や文化が形成されてきた地域です。

日枝神社と山王様

日枝神社と山王様

政治の街として、国会議事堂の国の機関や、政党の本部などのビルが建つ中にそびえるのが、永田町二丁目にある日枝神社です。

全国的にも長い石段がある神社は見られますが、石段を使わずに長いエスカレーターで昇っていける、近代的な設備を備えた豪華な神社です。

政治家が選挙の必勝祈願に訪れるなど、政治家が参拝する神社としても知られています。
由緒は古く、1659年に半蔵御門外から山王権現が移転され、日枝神社となりました。
その当時は森が広がっており、森の中に溜め池がありました。

永田町に接する溜池山王の地名は、溜め池があった鎮守の森に、山王様が祀られていたことに由来します。

その当時は山王様に参拝し、夏は溜め池の水で水遊びをし、旗本屋敷の庭園の緑を眺めながら、点在する茶屋で一休みするのが定番でした。
そのため、江戸庶民のオアシスであったと言われています。

山王権現は、仏教と神道が合体した神であり、江戸の人々は山王様と呼んで厚く信仰を集めていました。

しかし、江戸幕府が倒れ、明治維新が起こると、明治政府が神道と仏教を分離します。
そして、山王権現は国家神道に組み込まれ、日枝神社とされることになりました。

日枝神社になってからも、明治から大正、昭和、平成、令和の時を経てきたことになります。

山王祭

日枝神社に変わってからも、この地では山王権現の本祭として山王祭が行われています。
神田明神と交替で、隔年6月に開催される本祭です。

江戸時代、江戸城内に入御した御神輿を、三代将軍の徳川家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼する天下祭として、盛大に執り行われてきました。

現在でも、江戸三大祭の筆頭に位置付けられ、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並ぶ日本三大祭の一つです。

江戸時代の山王祭は絢爛豪華なもので、華やかな装束を身につけた人たちが行列をなし、山車や曳物、練物が並び、お囃子と踊りが繰り広げられました。
その様は、芸術作品や美術作品のようであったと言われています。

それを受け継ぎ、現在でも隔年で300mにもわたって祭礼行列が練り歩く神幸祭が、山王祭の一環として開催されています。

江戸時代にタイムスリップしたかのような光景が繰り広げられるのが魅力のひとつです。

神幸祭は、隔年で6月に開催されています。
日枝神社の境内でも、江戸時代の伝統芸能である邦楽やお茶、お花などのイベントが行われ、江戸時代の街に訪れたような体験を楽しめるのです。

例祭の翌16日(嘉祥の日)には、山王嘉祥祭も開催されます。
嘉祥の日とは、平安時代の嘉祥元年(848年)6月16日に、仁明天皇の神託により年号をあらためるにあたって、十六のお菓子を供えて疫病退散を祈願したという歴史に由来する日です。

日枝神社は、徳川将軍家の産土神であるとともに、嘉祥の御祝儀の6月16日が山王祭の期間中に訪れることから、嘉祥祭を開催しています。

全国和菓子協会の代表が集まり、全国各地の伝統の和菓子を神前に献じるとともに、万民の疫難退散と健康招福を祈願する神事を執り行っています。

永田町の歴史

政治の街となった永田町は、どのような歴史を経てきたのでしょうか。
これまで見てきた山王様の歴史とは別に、永田町の街の歴史を見ていきましょう。

永田町一丁目の歴史

現在の永田町一丁目エリアは、水辺では蟹を獲れるような自然あふれる場所で、江戸時代初期には近くに馬場もありました。

馬場へとつながる道筋に、永田という氏を持つ旗本の屋敷が並んでいたため、永田馬場と呼ばれていました。
これが、永田町の名前の由来となっています。

江戸時代中頃には永田町と呼ばれていたようですが、正式に町名が付いたのは、明治時代に入ってからです。

明治時代、この地は多くが軍用地として利用されていました。1936年(昭和11年)に国会議事堂が建てられたのを契機に、国政の機能が集中するようになり、政治の街としてのスタートを切ります。

永田町二丁目の歴史

一方、永田町二丁目は、国会議事堂を背に、山王坂を下ったところに広がるエリアです。
左手には、2002年に新しく建てられた首相官邸が建ち、その隣に激動の七十三年の歴史を語り継ぐ旧官邸が残されています。

正面の高台には、現在は長いエレベーターで昇降できる日枝神社がそびえ、鎮守の森が都会のオアシスの役割を果たしているのです。

また、切り通しを経た場所には、都立の名門として知られる都立日比谷高校があります。
1929年(昭和4年)、まだ東京府立第一中学校であった時代に、日比谷からこの地に移転してきたのがルーツで、移転前の名称が高校名に冠されました。

戦後の永田町の歴史

昭和初期の戦前の永田町は、国会議事堂を中心に、政治関連の機関と住宅街、商店街、高級料亭が点在した地域でした。

しかし、第二次世界大戦末期の1945年には、木造建築物の強制撤去が行われ、住宅が減少します。

さらに、5月に空襲に遭ったことで、官邸と永田小学校、一中の講堂、山の茶屋だけが残り、永田町一帯は焼失した状態で8月に終戦となりました。
日枝神社も焼失しますが、唯一、大銀杏と鳥居は戦火を免れられたのです。

1958年(昭和33年)に日枝神社の社殿が再興されると、永田町も戦後復興へと勢いを加速させていきました。近隣には、ビルも建ち並んでいきます。

戦前の1936年に、二・二六事件の舞台になった山王ホテルは、戦後の一時期はGHQの駐留軍施設になりました。

GHQが撤収したのち、44階建ての山王パークタワーに生まれ変わっています。
戦前に政治家が集まっていた高級料亭の幸楽は、ホテルニュージャパンとなり、大規模なホテルになります。

星岡茶寮があった地は、1963年に現在のキャピトル東急ホテルになる前の、東京ヒルトンホテルが誕生しました。

なお、1982年にホテルニュージャパンは火災で焼失し、多くの死傷者も出しています。
現在では、その跡地に38階建てのプルデンシャルタワーが建ち、その後も次々に超高層ビルが建設されています。

永田町の交通アクセス

永田町の交通アクセス

永田町は、東京メトロ半蔵門線・南北線・有楽町線の永田町駅をはじめ、東京メトロ丸ノ内線・銀座線の赤坂見附駅、東京メトロ南北線・銀座線の溜池山王駅も最寄り駅になります。

永田町駅と赤坂見附駅は接続しているので、乗り換えもスムーズです。
半蔵門線を使えば、青山一丁目や渋谷方面、また両国や錦糸町方面にも出られるだけでなく、南北線を使えば白金方面をはじめ、埼玉方面ともダイレクトアクセスできる路線です。

有楽町線を使えば、有楽町から市ヶ谷や飯田橋、池袋、さらに埼玉の和光市まで直通で行けます。
逆方向では、豊洲や新木場から千葉方面へとアクセスが可能です。

丸の内線を使えば、東京や新宿にも出られ、銀座線を使えば、渋谷や銀座、上野や浅草にも出られます。
都心部の主要駅はもちろん、埼玉、千葉へとアクセスしやすい立地です。

永田町のオフィス賃料相場

坪単価は、25,000円前後~10万円台まで幅があります。
立地や駅からの距離、ビルの築年数や共用施設、オフィスに備わる設備や広さによっても変動しますので、確認が必要です。

まとめ

永田町は政治の街として知られ、政治に関する機関をはじめ、政治家が集う高級料亭、ホテルやオフィスビルなどが揃っています。

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