人形町というと、どのような印象をお持ちでしょうか。
人形に何か関係があった街なのかなと思う方もいらっしゃるかもしれません。
人形町は下町風情が残る街でしたが、近代化も進められた地域です。
この記事では、人形町の特徴や歴史についてご紹介していきます。

人形町の特徴

人形町はどんな街なのでしょうか。
その特徴を見ていきましょう。

水天宮のおひざ元

人形町エリアには、安産・子授けの神様として知られる水天宮があります。
そのため、安産祈願に最適と言われる戌の日を中心に、現在でも多くの妊婦さんやご夫婦、ご家族連れが参拝に訪れます。
人形町駅から水天宮へとつながる道沿いには、妊婦さん向けの洋品店や縁起物などを売るお店、人形焼きなどの土産物店が連なっているのも特徴的です。
また、参拝客をはじめ、近隣のオフィスワーカーのための飲食店やカフェ、スイーツ店なども多いです。

明治座の最寄街

人形町駅は、演歌歌手などのコンサートをはじめ、劇などが行われる明治座の最寄駅でもあります。
人形町に古くからある商店街である甘酒横丁を抜けると明治座に出ます。
甘酒横丁には、江戸時代から続く伝統工芸店をはじめ、焼き鳥店や豆腐店、佃煮店などの老舗店、人形焼きや和菓子などの土産物店などが今も残っており、地域の方の買い物スポットでもあり、観光客や観劇客が買い物をするスポットとしても人気です。

住宅街からオフィス街へ

住宅街からオフィス街へ

人形町は下町情緒が残り、かつては木造住宅などが連なる住宅街でもありました。
ですが、バブルの時期から戸建て住宅がマンションやオフィステナントも入る雑居ビルなどへ建て替えられていきます。
戸建て住宅や商店を営んでいたオーナーが上階に住居を構え、下層を賃貸住宅やオフィスとして貸すケースが増えたのです。
現在ではオーナー陣の高齢化が進み、すべて賃貸オフィスになった物件も増えてきました。
さらに、マンションも老朽化して建て替えが進み、中高層のオフィスビルへと生まれ変わってきました。
その結果、下町の住宅街がオフィス街へと変貌を遂げています。

人形町の歴史

人形町はどのような歴史を遂げてきたのでしょうか。
人形という、独特の名前が付いた背景なども見ていきましょう。

江戸時代の埋め立ての歴史

現在の人形町をはじめとする日本橋界隈は、その昔は干潟でした。
徳川家康が江戸を開拓した時、江戸城の東側に広がる広大な湿地だったのです。
家康は、この地を埋め立てれば、水上交通の便もよりスムーズになると考えて、埋め立てや街の造成に着手しました。
天正18年、西暦1590年頃からスタートし、30年ほどかけて街並みが作られていきました。

江戸歌舞伎の始まり

現在、歌舞伎として親しまれている伝統芸能が始まったのは寛永元年 (1624年)頃のことです。
京都から江戸にやってきた歌舞音曲の名人であった猿若勘三郎が、猿若座を人形町に開きました。
猿若座は後の中村座になるもので、現在の中村勘三郎の初代が形成したものです。
猿若座を皮切りに、泉州堺の村山又三郎が村山座を開き、後の市村座の礎を築きました。
猿若座も村山座も、現在の人形町三丁目と堀留町にあたる人形町に芝居小屋を建てました。
すると、江戸歌舞伎の上演に加え、周辺に人形浄瑠璃や説経芝居、見世物小屋などのエンターテインメントが楽しめるスポットが続々と集まってきます。
曲芸、水芸、今でいう手品にあたる手妻など、手頃な料金で楽しめる小屋も増えていきました。
これによって人形町一帯は、大名などの富豪層から、町人などの庶民まで幅広い層の人たちが、当時の娯楽の代名詞であった芝居見物を楽しめる街として賑わいを見せていったのです。
現在でも歌舞伎公演に名残がありますが、当時の大芝居見物は1日がかりで楽しむ贅沢なエンターテインメントでした。
まず、朝から茶屋に上がって桟敷で芝居を楽しんだら、幕間に酒に肴、お茶やお弁当などを楽しみます。
さらに、芝居が終わると、その余韻を楽しみながら茶屋でくつろぐのが定番でした。
当時の芝居はあらゆるトレンドの発信源となり、今でいう役者のおっかけをする熱狂的なファンも現れました。

人形芝居の人気が町の名前に

歌舞伎は1日がかりで楽しむ贅沢なエンターテインメントショーであった反面、人形芝居は短時間で芝居が楽しめ、料金も手頃な庶民の娯楽として人気を集めていきます。
すると、芝居小屋周辺の現在の人形町二丁目周辺に、人形の製作者や修理を行う職人、人形を売る店や人形を操る人形師などが集まり、生活の拠点にするようになっていったのです。
人形芝居を楽しむだけでなく、人形を買える街としても発展していき、季節ごとに人形市が開催され、お正月は手鞠や羽子板、 3月は雛人形、5月には菖蒲人形などが並び、年間を通じて多くの芝居見物客や人形を買い求める人で賑わいました。
この当時の様子を記録した元禄江戸図によれば、堺町と和泉町の間の通りに、人形丁という記載があります。
この頃から人形丁という通称で呼ばれるようになっていたことがわかります。
もっとも、正式に現在の人形町という地名になったのは昭和8年のことで、関東大震災以降の区画整理がキッカケでした。

明治時代により賑わいある街へ発展

明治時代により賑わいある街へ発展

明治時代になり、人形町が大きく変わる出来事が起こります。
それは、明治5年の鎧橋の完成による新道開通と、水天宮が人形町の地に移転してきたことです。
新道が開通したことで、赤坂から有馬家が移転してきました。
有馬の藩邸内社が水天宮だったのです。
移転してきた当時は有馬家の敷地内にあるため、人々は入ることはできませんでした。
水天宮の存在を知った庶民たちは、ご利益を得ようと、敷地の外からお賽銭を投げ入れて参拝するようになります。
すると、有馬家の配慮があり、毎月5日を縁日とし、月に1回だけ一般庶民も中に入って参拝ができるようになりました。
「なさけありまの水天宮」が当時の流行語にもなったほどの盛況ぶりでした。
水天宮にある鈴を鳴らす晒の紐である鈴乃緒のおさがりを腹帯にすると安産になるというご利益も伝わり、どんどんと参拝客が増えていったのです。
その後は、5日の縁日をはじめ、安産祈願に良いとされる戌の日には多くの参詣客が訪れるとともに、人形町にある芝居小屋や寄席、飲食店などにも立ち寄るようになります。
そのため、人形町は東京市有数の繁華街として発展していったのです。
この光景は今でも残されています。

人形町の交通アクセス

人形町は、東京メトロの日比谷線と都営地下鉄浅草線の駅があります。
日比谷線は神奈川の日吉から埼玉県を通って、東武動物公園や鬼怒川方面まで直通運転している路線です。
都心部では茅場町や築地、銀座や日比谷、六本木などにもダイレクトアクセスでき、ビジネスシーンでも便利です。
神奈川や埼玉、栃木などへもつながっているので、出張や関東近県への営業などにも活用できます。
一方、都営地下鉄浅草線は銀座や新橋、五反田や品川など都心部のオフィス街をつなぐほか、浅草橋などの問屋街ともつながっています。
さらに、羽田空港や成田空港ともつながる路線なので、遠方や海外への出張にも便利です。
人形町から徒歩でもアクセスできる箱崎の東京シティエアターミナルを利用すれば、成田空港や羽田空港へ直結するリムジンバスにも乗ることができます。
リムジンバスで羽田空港まで約25分、成田空港へは約55分と1時間もかかりません。

人形町のオフィス賃料相場

坪単価は12,000円前後~20,000円前後です。
20坪程度の小規模オフィスから、100坪や200坪を超える大型オフィス物件も多いのが特徴的です。
駅からの距離や築年数、設備などによって単価も変わるので、ニーズや予算に合わせた物件を選びましょう。

まとめ

人形町は江戸歌舞伎の発祥の地でもあり、人形芝居の小屋もでき、そこに人形制作者や人形販売店などが集まったことから人形町という名前になりました。
水天宮や下町風情ある甘酒横丁が今も残っていますが、住宅街はオフィス街へと変貌を遂げてきています。

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