両国といえば、相撲をイメージされる方が多いのでないでしょうか。
両国国技館があり、周囲には相撲部屋があり、ちゃんこ料理店などがあるイメージかもしれません。
そんな相撲の街として知られる両国の街の特徴や歴史について見ていきましょう。
目次
両国の特徴
両国はどのような特徴がある地域なのか、特徴を見ていきましょう。
相撲の聖地
両国には両国国技館があり、相撲の聖地として親しまれています。
両国で場所が開催される時には、全国から多くの観戦客が訪れ、観光バスなども行列します。
両国国技館があるだけでなく、周辺に有名な相撲部屋も複数あるので、両国の街を歩いていると、浴衣姿の力士に出会うことや自転車に乗って買い出しなどに出かける力士の姿を見かけることも少なくありません。
まだ、四股名もない無名の力士であっても、ほかの地域では見ることがない光景なので、姿を見かけるとワクワクしてくる方が多いのではないでしょうか。
グルメ店が多い
両国は、江戸時代からの歴史を残す街なので、老舗の飲食店をはじめ、引退した力士が営むちゃんこ屋さんなど、グルメが楽しめるお店が多いです。
両国国技館があることから、観戦客をターゲットにした飲食店も多数集まり、相撲部屋があることから力士が通う人気店などもあります。
ちゃんこ店にとどまらず、ラーメン店やお好み焼き店、焼き鳥店や焼き肉店など多彩なお店が建ち並びます。
力士はたくさん食べるだけでなく、力士を応援するタニマチから高級店でご馳走される機会も多いことから、舌も肥えています。
そのため、力士をうならせるようなグルメ店やボリュームたっぷりなお店が多いのも魅力です。
庶民的な雰囲気が残る町
両国駅を降りると、思ったより都会のイメージを持たれると思います。
庶民的な下町が広がっているのかと思いきや、ビルが建ち並ぶオフィス街や商業地区のような雰囲気もあります。
ですが、駅から少し歩くと相撲部屋があり、その周辺には古くから暮らす住民の戸建住宅なども建ち並び、庶民的な風情を感じることが可能です。
相撲部屋の近くを通ると、稽古をする掛け声や音などが聞こえてきます。
巡業中は静かになるので、両国に暮らした場合や両国のオフィスで働くようになると、大相撲の開催スケジュールや場所の名前なども、いつしか覚えてしまうようになるでしょう。
両国の歴史
相撲の聖地として名高い両国ですが、その歴史はいつ頃から起きてきたのでしょうか。
両国の歴史を見ていきましょう。
両国と相撲の歴史
両国のシンボルと言われているのが、回向院というお寺です。
江戸時代の明暦3年(1657年)に起こり、江戸の下町を焼き尽くした明暦の大火で命を落とした10万人を超える被災者を弔うために建立されました。
観戦客からお金を取って見せる大相撲の歴史も、このお寺がルーツと言われています。
お寺の修繕資金を集めるために、回向院の境内で相撲が行われたのが最初と言われているためです。
江戸時代末期から、境内に建てられた仮設の小屋で、回向院相撲が開催されていました。
ところが、明治39年(1906年)に、なんと帝国議会が回向院の境内に、常設の相撲の屋内施設を創設することを決定します。
さらに、その設計に抜擢されたのは、東京駅をはじめとする名建築の設計者である辰野金吾でした。
建設工事は、1906年にすぐに着工に移され、明治42年(1909年)には約13,000人もの観戦客を収容できる大規模な相撲競技場が完成します。
設立委員会の委員長は、歴史的にも名高い板垣退助でしたが、板垣退助が国技館と名付けました。
ですが、竣工から10年も経たない大正6年(1917年)に火災で焼失してしまいます。
大正9年(1920年)に再建されたものの、さらにその3年後の大正12年(1923年)には、関東大震災で一部を残して焼失するに至りました。
それでもめげることなく、翌年には再建されています。
その後、第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)には、日本国の陸軍に接収され、風船爆弾工場として利用されました。
ですが、昭和20年(1945年)の空襲で再び焼けてしまいます。
いくどもの焼失と再建を経た建物は戦後GHQによって接収され、残されていた建物が改装されてメモリアルホールになり、ボクシングやプロレスなどの興行会場になりました。
相撲が行われることはないまま、昭和27年(1952年)に接収が解除されます。
この時には、すでに蔵前に新国技館の建設が進められており、跡地は民間の複合施設として利用されています。
蔵前国技館も築30年を経て老朽化したことで、両国駅の北側に新たな国技館建設が始まり、昭和60年(1985年)に現在の両国国技館が開館することになりました。
両国橋の歴史
両国橋は、江戸時代に隅田川に架けられた歴史ある橋です。
江戸時代の1657年に明暦の大火が発生した当時は、まだ橋はありませんでした。
橋が架けられていれば、より多くの方が隅田川を超えて避難でき、命が助かった可能性があります。
対岸に渡れなかったことで、多くの方が逃げられずに亡くなったことを踏まえ、明暦の大火後には隅田川に永代橋など続々と橋が建設され、両国橋もその一つです。
両国橋は、明暦の大火が発生した4年後の1661年に完成したものです。
当時は、両国橋の両側は広場になっていました。
これは橋に火が燃え移って、橋が燃えてしまうのを防ぐためです。
大火の影響を受けないようにすることで、避難経路として機能させることができます。
もっとも、実際にはこの広場に仮設の屋台が建ち並び、地域の人で賑わっていました。
現在、夏の恒例行事として全国的に名を知られ、毎年テレビ中継もなされている隅田川花火大会は、両国橋エリアで開催されたのが始まりとされています。
ですが、1897年の花火大会の際、両国橋の欄干が崩れ落ちてしまいます。
それに伴い、両国橋を再建した際に橋の位置が最初の橋より少しずれた位置に建設されたことで、両側に設けられた広場もなくなりました。
両国の交通アクセス
両国には両国駅があり、JR総武線と都営大江戸線が通っているので便利です。
JR総武線は、東京と千葉を結ぶ路線であり、営業や商談などビジネスシーンにも役立つだけでなく、千葉方面や三鷹など東京西部からの通勤にも便利です。
通勤に便利な路線が通っていると、人材採用にも役立ちます。
JR総武線を使えば、秋葉原駅や東京駅、御茶ノ水駅や飯田橋駅や新宿駅などオフィス街にダイレクトアクセスできます。
また、中野駅や吉祥寺駅、三鷹駅などシングルからファミリー層まで人気がある東京西部の住宅街エリアにも通じているので通勤もしやすいです。
都営大江戸線を使えば、勝どき駅や汐留駅、大門駅や六本木駅をはじめ、青山一丁目駅や代々木駅、新宿西口駅や都庁前駅など東京都心部のオフィス街へとダイレクトにアクセスできます。
両国のオフィス賃料相場
両国の賃料相場の坪単価は、30坪~50坪のオフィスで16,000円前後、50坪~100坪のオフィスで17,000円前後、100坪~200坪で17,000円前後となっています。
立地や駅からの距離、築年数や設備、周辺環境によっても変動しますので、確認が必要です。
まとめ
両国は、両国国技館があり、相撲の街として全国的に知られています。
相撲部屋があり、観光客も多い地域なので、ちゃんこ店や老舗店をはじめ、おいしいグルメのお店も多く、ランチや業後のディナー、飲み会なども楽しめる地域です。
JR総武線と都営大江戸線が通っているので、オフィス街へのアクセスもスムーズで、千葉方面や東京西部のベッドタウンともダイレクトにつながっているので、通勤もしやすく、人材採用にも有利に働きます。
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